「おはなさんのこと」
千葉はなさんの太陽のような明るさは、彼女の命そのものだったのだと思う。
羊毛とおはなのふたりに、初めて会った日のことはよく覚えている。羊毛とおはなのディレクターに「ぜひ一度、ライヴを観てください。」と誘われ、渋谷「カフェ・スイート」というお店に足を運んだ。狭い店内の二階で、ふたりはキャロル・キングのナンバーをしなやかにカヴァーしていた。ぼくは感激し、終演後、すぐに彼らに声をかけた。そして、当時、ぼくが制作していたビートルズのララバイ・カバー 集「りんごの子守唄」シリーズでおはなさんに歌ってもらうことを決めたのだ。
やがて、羊毛とおはなの制作にもかかわるようになり、一緒に音楽を作るようになって驚いた。とにかく、スタジオでふたりはよく口論を繰り返していた。それは、些細なことが多かったけれど、ふたりはいつも真剣で必死だった。羊毛とおはなというグループが、どんな方向に向かえばいいのかを、いつも考えていたからなのだと思う。だから、その光景を、ぼくはいつも「いいな」と微笑ましく眺めていた。
ぼくは、なんでも、そつなく出来てしまうより、こんなふうに不器用なひとの方が好きだ。小さな段差でつまずいたり。シャツの袖元がめくれてしまっていたり。雨傘がうまく広げられなかったり。羊毛とおはなは、まさにそんなコンビだったように思う。
10年ほど前、羊毛とおはなが結成された時期は、渋谷を中心としたカフェ・ブームの真っ只中。カフェでのライヴも盛んに行われていた。彼らは、そうした音楽の担い手として人気があり、いつも忙しく、各地でのライヴを繰り返していた。ぼくも何度か共演した。
けれど、そんな状況下で彼らは悩んでいた。もちろん、今は今で楽しい。けれど、自分たちがやりたいことは、もっともっと大きなものではないかと。
いまよりさらに聴いてくれる人のこころに届く歌を作る。そして、歌うには、どうしたらいいのかと。
そのためには、人生、命、愛といったテーマを避けることは出来ない。 でも、普遍的なテーマこそ、とても難しい。プロという名の音楽家ならば、必ずやぶつかる大きな壁だ。
だから、ぼくがプロデューサーとして呼ばれ、最初に決めたことは、羊毛とおはなのコア・ゾーンから関わるということだった。日本で呼ぶ所のプロデューサーは、主にサウンド・メイキングのアシスト(曲のアレンジメント)が中心だが、その枠組みを越え、ふたりの間に入り、徹底的に関わることにした。
ほぼ毎日(半年間)、電話越しにデモ音源を聴かせてもらい、細かいメールでのやり取り、曲や歌詞のリライト作業を続けた。レコーディング前のバンド・リハーサルでは、プレイヤーの横に座り耳を澄ませた。そうして出来上がった作品が『月見草』というアルバム。だからこそ、一点も曇りなく、今、このアルバムを傑作と呼べる。ふたりともほんとうによくがんばったと思う。
制作中にとても印象に残っていることがある。おはなさんが「わたしにはなにも歌いたいことがない」と言ったことだ。
もちろん、アスリート的なシンガーなら、なにも歌いたいことがなくてもいい。歌うという行為だけに全精力を費やしてもいい。良い歌を作るひとは世の中にいくらでもいるのだから、いい曲を探してくればいい。音楽は楽しいほうがいい。無理に歌を作らせる必要はない。
でも、ぼくは、おはなさんは気づいていないだけだと思った。なぜなら、おはなさんが作る曲がぼくは好きだったし、なにも歌いたいことがない人が作る歌だとは決して思わなかった。そこには、いつも、きらきらと光るものがあった。今回、発掘された未発表曲「永遠の少女」もそのひとつと言えるだろう。「小さい頃の思い出を歌にしてみたら?」というぼくの提案に、こんなにも素直にストレートに、自分の幼年期の出来事をそのまま歌にしてみせたおはなさん。想像していたのとはまるで違う歌詞に、ぼくはおもわず吹き出してしまった。
千葉はなさんは紛れもなくアーティストだった。あの太陽のような明るさは、彼女の命そのものだった。悔やまれるのは、おはなさんの歌を、もっともっと残してあげたかったこと。もっともっとスタジオで共にレコーディングしたかった。
昨年、ぼくはTHE BOCOSのふたりと台湾のライブで共演した。そこには、なんと、おはなさんのご両親が観にいらしていて、初めてお会いすることができた。おふたりを見た瞬間、ぼくはふいに泣きそうになってしまった。なぜなら、ご両親の笑顔の中に、すぐにおはなさんの笑顔を見つけてしまったから。そして、その場で、四月のライブで演奏することを約束した。
みなさん、『 羊毛とおはなの日 』に、会場でお逢いしましょう。
WORLD STANDARD 鈴木惣一朗